合気道は実戦で使えるか?



私は養神館合気道を12年間稽古しました。私の経験や合気道の歴史などを踏まえこのテーマをまとめてみました。あくまでも私の個人的な考え方です。何が実戦か?何が武道か?そして実戦で使えるかどうか?は人それぞれが決めることです。

・合気道は実戦で使えるか?

多くの合気道家、その他の武術家の方が関心のあるテーマではないかと思います。いくつかの方向からアプローチして自分なりの答えを出してみたいと思います。

―はじめに―
・実  戦:戦争になったときの素手による格闘術または、武術家、格闘家同士の戦い
・護身術:素人を相手に身を守る手段


―アプローチ―

@経験

私は養神館合気道を12年間稽古しました。その私が合気道を実戦で使えるかどうかと言われたら無理です。上記定義の護身術なら相手が自分と同じぐらいの体格ならなんとかなるかなと思いますが、相手が格闘家であったり、大男であったりした場合にはどうすることもできずにボコボコにされてしまうと思います。

実際、フルコンタクト空手をやっているという人と、軽いスパーリングをしたことがありますが(道場外でです)、じわじわと接近してくる相手には、「後の先」の戦術自体に無理があると感じました。

また、中学時代柔道部だったという友人と、遊び程度ですが、手合わせしたときも簡単に足を払われなすすべなく終わりました。

もしも彼らが自由技のようにまっすぐ突っ込んできてくれたのなら、正面入り身などができたかも・・・とも思いますが、そんな無謀な戦術は格闘家ならしないでしょう。

A稽古

稽古その1

当たり前の話ですが、柔道家の稽古相手は柔道家です。空手家の稽古相手も空手家です。しかし、合気道家の稽古相手は果たして合気道家なのでしょうか?

答えは私はNOだと思います。

なぜなら合気道は「後の先」である以上、自分から打ちこむ、手首をつかむという戦術はあり得ないからです。

合気道家で自分から相手の手首をつかんだ場合、その後どのようにして戦うでしょうか?普通ならパンチを出すわけですが、パンチは練習していなければできないのは周知のことです。つまり合気道家は、自分が練習もしていない攻撃方法を相手(仕手または取り)にかけているわけです。自分から手首をつかみに行った時、合気道家は格闘経験のない素人同然の状態になっているのです。正面打ちや横面打ちも同様です。あのようなノーガードで相手に突っ込んでいくことは自殺行為であるため、格闘経験がある人ならまずあり得ない戦術です。正面突きも同じこと。突ききりのパンチはとどめの時以外はやはり自殺行為です(ちなみに正面突きは短刀を持っているという想定なので、型として間違ってはいません)。

このように合気道家は他の武術家・格闘家と異なり、いつも素人相手に稽古をしている状態であると考えられます。

そんな人たちが実戦で戦えるのかどうかは疑問と言えます。

稽古その2

合気道の稽古では手首などをつかませた状態から相手に技を施します。しかし、実際つかまれてしまったらそこから四方投げなどの技を施すことはできるでしょうか?

結論から言うとできません。相手が手首をつかむ力が、稽古の時にくらべて強すぎるからです。

合気道では実戦ではつかまれてはいけないと、かの塩田剛三先生もおっしゃっていたことです。そして現在の著名な先生方も同じようにおっしゃいます。武術、戦術の常識からいっても当然の話でしょう。

また、合気道をやられている方がいらしたら試していただきたいのですが、型稽古の中でも力をいれて手首をつかんで引かれたらほとんどの人は技を施すことはできないはずです。

実戦ではつかまれてはいけないのになぜつかませるのでしょうか?

答えは合気道の稽古は実戦で戦えるようになることを目的としていないからと言えるのではないでしょうか?

あくまでも如何に相手の力を殺せるかという研究のために型が存在しているのだと思います。今現在の合気道の稽古に実戦という想定はないのではないでしょうか?

B「合気道は実戦で使えるか?」というテーマの存在

「空手は実戦で使えるか?」という議論は聞いたことがありません。

なぜか?

使えるに決まっているからです。

武道とは武術の道です。武術とは格闘術、殺人術のことを指します。そのようなものを常日頃から稽古していれば、その人は強いに決まっています。

武道や武術は強くて当たり前なのです。本来ならば実戦で使えないものならば武術・武道とは呼ばれないはずなのです。

ではなぜ合気道にかぎって「実戦で使えるか?」という議論が沸き起こるのでしょうか?

それは合気道家の多くが使えないと思っているからなのではないでしょうか?

実際、空手や柔道をやっていた友人たちがよく言っていたのは「合気道は何をされるかわからない恐怖感がある」というものでした。そうなんです。他の武術家たちは合気道が使えないものと決めつけてはいないのです。合気道を崇拝しているからではありません。武術なんだから強くて当たり前だと思っているからです。

皮肉なことに、合気道を知らない人は合気道は実戦で使え、合気道を知っている人は使えないと思っているというのが私の周りの現状なのです。実際、合気道道場で、「あなたは強い、弱い」という話しはしたことがありません(スパーリングがないので当然かもしれませんが)。その代わり言うのが「上手いですね」です。

合気道は、強い弱いより、上手い下手が重要になってしまっています。

C合気道の歴史

植芝盛平、塩田剛三・・・強い武術家を並べるとき合気道家も数多く在籍します。その昔合気道は最強の武術と言われていたことをご存じの方も多いのではないでしょうか?

それなら「合気道は実戦で使えます」でこの議論は終結するはずです。

なぜ終わらないのか?

実はここが一番の問題点だと思うのですが、合気道は現在と過去とで(正確には戦前と戦後)稽古方法が全く異なるのです。

現在の合気道の稽古はご存知の通り、正しい理合いに基づいて相手の抵抗感をなくした状態で制圧するというものです。力を使わないと誤解される理由はここにあります。

しかし、戦前は全く違っていました。戦前の稽古は当て身が中心です。稽古で怪我をするのなんか当たり前という時代。稽古の時からかなりの力で当て身を当て合っていたのです。当て身は実際に当てていなければ強くはならないし、打たれ強くなるということも重要なことです。そして、他の武術と同様間合いによっては投げ技などを施していたのです。

ちなみにその当時の合気道家は皆、筋トレをしてムキムキだったと言います。植芝盛平先生の怪力話は有名ですが、みんな師匠を真似てトレーニングに励んだと言います(だからこそ当て身を当てることができたのでしょう)。また、戦時中ですし、道場破りのようなものも頻繁にある時代です。実際に強くなくてはいけなかったという事情もあったのだと思います(上手ければいいという現在とは大違いです)。

それが戦後、上記のような過激な稽古は教育によくないといわれ、段々と当て身が省かれていったそうです。

「合気道は当て身が7分投げ3分」という言葉がありますが、当て身を省いた時点で、元々の合気道とは大きく性質を変えることになってしまったのです。

そういえば初心者だったころ私は合気道の型稽古が理解できず、「実戦で2カ条をとることができるのですか?」「片手持ちの技では実際には持たれた瞬間には殴られているのではないですか?」などとよく先生に質問したものです。その時、先生が「実際は当て身で戦います」とおっしゃったものでした。

しかし理解できない点が1つあります。

それは、いったいいつどこから理合いに基づいて相手の抵抗感をなくした状態で制圧するという稽古スタイルが出てきたのでしょうか?

無駄に相手を傷めないという、合気道の理想は崇高なもので大きな尊敬に値します。

しかし、戦前の合気道からは全く導き出されない理想です。

私の個人的な考えでしかないのですが、そのような理想は、植芝盛平先生、塩田剛三先生といった強さを極めた達人たちが合気道の研究として余興的におこなっていたものなのではないかと思えるのです。

強さとは無関係の理想を求めることは武道の世界ではよくあることです。合気道も例外ではないはずです。

その崇高な理想の追求こそが現在の合気道団体の使命です。塩田剛三先生がおっしゃった「和合の道」というお言葉にもつながります。

しかし、武術・武道はあくまでも強くなくてはいけません。これは絶対の真理です。

理想の追求は余興でなければならないもののはずなのです。

今の合気道団体は、本来の目的を見失っているように思えてなりません。


「合気道は実戦で使えるか?」


私にはこのテーマの存在自体が無意味に感じてしまいます。